読者の皆さん、おはようございます。
最近素敵なブログ「山と川のあいだで」を見つけて時々コメントをさせてもらっていたら、そのブロ友(ブログで知り合った友達のことをこう呼ぶらしい。知らなかったのは私だけかも!)の方が油絵をUPしていらっしゃいました。あなたもも載せてみたら、という言葉を戴いて、思ってもいなかったのですが、載せてみることにしました。
これは水彩用の色鉛筆で描いたもので、小さな池の端にある茶屋の絵です。これを描いた当時、既に主は無く、今はもうその家さえも無くて、草が生い茂っていますが、この茶屋には昔おばあさんがひとり住んでいらっしゃって、ピーナツとかあめ玉とかほんの数種類の駄菓子を商っていらっしゃいました。
子供の頃、なにがしかの小遣いをもらって弟とふたりでバスに乗って町に出かけ、お菓子を買っているうちにお小遣いを使いすぎてしまって、気が付くと帰りの分のバス代が足りなくなっていました。もうお日様が西に傾く頃で不安になったものの、バスがなければ歩いて帰るしかないと、今になって知れば7キロほどの家路を、ふたりで歩いていた時のことです。
あれは秋のことでしたか、風も少し冷たくなるし、どんどん日は傾いてあたりが薄暗くなってしまって、けれど、田舎のことですから、山を越えなくてはうちに帰れず、ふたりで手をつないで山を越えていた時のこと。ちょうど山を越えたあたりにこの茶店があったのです。なんだか、山の中で迷った人が人家を発見する時はこうもあろうか、というほっとした気持ちになったとたん、すっかりおなかが減っていることに気が付き、おそるおそる、「ごめんください。」と言って中をうかがうと、ひどく腰の曲がった小さなおばあさんが奥の方から出ていらっしゃいました。もう外は薄暗いのに、店の中は灯りもついておらず、おばあさんの顔さえよく見えないほどです。そういうようなことですから、菓子が置いてあるのはわかるものの、どんなものがあるのかはよく分からないのでしたが、ピーナツ20円ください、といって、20円分のピーナツを買ったのです。
もう45年ほども前のことでしょうか。当時、駄菓子屋ではばら売りをしていて、10円分のピーナツというと、秤で量ってその分を薄い紙の袋に入れて売ってくれました。それがちょうど小さい子供の手に持てるくらいの量でした。このピーナツ菓子というのは、落花生をせんべいのようなものでくるんで、焼き、それに醤油の味を付けたもので、今も商品として売っているものです。ですから、暖かい子供の手で大切に持って食べていると、だんだん外側の甘辛い醤油が溶けて紙にくっつくので、食べ終わる頃にはその紙を丁寧に剥がして食べました。
話がそれてしまいましたが、こんなわけで、この店は哀愁を感じる特別の店なのです。
幼い頃の思い出というのは、実は私にはそれほどドラマチックなものはありません。田舎の暮らし自体が、そもそもあまり変化のないものだったからでしょう。が、ある日見たひどく紅い夕日とか、勉強部屋の前にある木の葉からしたたる雨だれの様子とか、すっかりへこんでいた時に父がくれた「青い鳥」のチルチルとミチルの像とか、特別な思い出もそうは思えないような小さなことも、頭の中にはすべてが深くしまい込まれているのです。普段思い出すことがないような小さな記憶の断片が、かすかな匂いや、風の吹き方、雨だれ、音、そんなふとしたことがきっかけでまざまざと思い出されてくる。そうしてみれば、一生の間、日々重ねてゆく小さな事々の積み重ねが、その人の人生そのものになるということであり、このひとときをどう過ごすか、どうとらえるか、ということは決しておろそかには出来ないと改めて思いました。