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社会

聾唖者が大学を受験する、というニュースをやっていた。手話通訳ともうひとり何かの介助が必要だということだったが、受験を試みた20の大学のうち、介助を認めたのはたった2校だったという。
この他に、聾唖者の生活は社会からほとんど忘れられた存在で、社会的な位置づけが正しくされていないばかりか、正確な人数さえ把握されていないらしい、、、

こんな話を聞いて自分の国にげんなりした。

もうしばらく前にノーベル賞をもらったエライ先生が、一番じゃだめなのかという例の発言に、怒って反論していたが、それを聞いた隣の山の神みたいなおばさんが、「あの人らは、みーんな自分の力で賞をもらったんじゃとおもっちょるようじゃが、そんなこたぁないぞ。頭がええように生まれついたんじゃ。」といった。

自分たちが世界で一番になったのは、記憶力が良くなる遺伝子がたまたま発現したことと、たまたま自分が耳も聞こえ、子どもが勉強に打ち込むことが許されるだけの経済力を持った親の元に生まれついたから初めてなしえたことであり、一つ欠けても世界で一番にはなれなかったに違いない。つまりどんな人生でも半分は運命なのだということを努々忘れてはならないと思う。見えるように生まれるか、見えないように生まれるかは五分五分の割合であり、見える私たちはそうでないように生まれついた人のことを忘れてはならない。他の障害もしかりである。

これもしばらく前のことになるが、日本でただ一つ実力テストの受験を拒否した愛知県の犬山市の小学校の教育方針は、うちの学校は5の子もいないがしかし1の子もいない、全体が4くらいで落ちこぼれる子がいないようにするということであり、従って全国統一の実力テストには参加しない、と市長だか、教育長だかが発言していた。犬山市の小学校では、授業を理解できた子が理解できなかった子に教えるという方法もとっていた。

こんなことをしていたら日本は一番になれない。裏を返せば勉強が分からない子に時間をかけたりせず、良くできる子を更に伸ばすことをしない限り、世界で一番をめざすことはできない。残念ながら犬山方式は絶対少数派で、今となっては絶滅したかもしれない。

常に、自分よりも幸運に恵まれなかった人のことを忘れないようにしたいと思う。
by cahiersauvage | 2011-01-29 21:17 | 考える