カテゴリ:リビング・スキル( 58 )

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今日は4月から始めるリビング・スキル英会話教室の教室説明会を開いた。春から3年生になる子と4年生になる子合わせて6人が、お母さんや弟さんと一緒に集まってくれた。

子どもの目はこんなにも澄んでいるんだ、と改めて感じるうれしい説明会だったが、計画したことが半分しかできず、ばたばたして終わってしまった。参加してくださった皆さん、すみません。

リビング・スキルは暮らしの言葉として英語を習うので、授業は基本的に英語で行う。子どもは最初のうちきょとんとしているが、あまり心配することはない。大事なことは日本語で言うし、この頃の子どもは言葉自体の他に表情や身振りなどあらゆることから情報を獲得するために、言葉自体を教えるより、英語の音やリズムを体得してもらうことが大切だ。このリズムと音を体で覚えてしまえば、口から言葉を出すのはたやすくなる。気の長い話だが、この時代には必要、かつ効果的だ。また文字についても、日本語のように口で言うとおりをつづる方法をこの年代に習得することで、知らない言葉でもちゃんとつづれるようになる。

家でも教室で習った英語を使ってお母さんが声をかけてあげて欲しいと言うと、或るお母さんから間違った発音をしたら心配だという声が上がった。実をいうと、学校で習うような英語の発音で英語を話している人はむしろ少ない。それぞれがそれぞれの個性を持って話している。その幅は日本人の日本語の癖の幅よりずっと広い。英語は世界中の人が使っているために、英語圏以外の人の話す英語はぎょっとするようなものがある。が、それなりに通じているのである。それは、ほとんどの国が同じアルファベットを使っているから、fとvとhの違いが、発音が悪いなら悪いなりにあるからだ。日本語にはこれら3つの文字をいずれもハ行で表記する。このあたりに気をつければ、発音はあまり問題はない。また、たとえ間違ったとしても、文脈で通じることは多い。区別するところだけを抑えておけば、世間でいわれているほど発音に気を使う必要は無いように思う。発音より何より、とりあえず口から言葉を出すことが肝心だ。間違ったっていいのだ。かなり怪しい英語がどれほど普通に使われているか、英語を第三外国語として使っている外国人の話を聞いているとよく分かる。バカボンではないが、それでいいのだ!
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最近友人からfacebookへの誘いがあり、参加した。実はまだ日本語版が出ていない時にfacebookにアカウントを作ったのだが、友人が誰も参加しておらず、アメリカに住む従妹だけだったのでしばらくしてアカウントを削除していた。しかし最近はfacebookが世界最大のSNSとしてメディアで紹介されるようになった。あんまり巨大なものは好まないたちなので自分から参加することはなかったが、わたしが参加しているグループがfacebookを使用しているということなので、今回再びアカウントを取得した。今回は友人らが沢山参加していたので、コメントやメッセージなど交換して楽しいことが多い。実名で参加しているので、虚構の中の友人関係という感じがしない。
ネットが普及しだした頃はいたずらも数多く、ネットに本当の情報を記載すると言うことがはばかられたが、ネットマナーもこのごろは定着したらしい。わたしはブログでも、他へのコメントでも実名を出しているが、困ったことはない。ただし、どんなことをコメントする場合でも人を中傷したり、過激な表現は避ける。つまり、自分が言われて傷つくようなことや、非生産的なことは決して言わない。
実名を出すということは、どんなことにせよ個人を特定することに対して躊躇する傾向がある日本社会で、勇気が要ることのように思う。Facebookはアメリカで開発された(ハーバード大学の学生が開発した)ツールだということもあって、実名が定着したのではないかと思う。わたしが知る限り、周りにいるアメリカ人やフィリピン人などのいわゆる外国人の友人はどの人も気さくで、大まかで、付き合いやすい。多少の失敗は自分のものも人のものもあまり気にしない。失敗したらやり直せばいいじゃない、といつもそんなふうに彼らは思っているように思う。当初はこんなことで大丈夫か、とわたしが思っていたことでも結構難なく進んでいく。それは失敗を恐れないからだ。計画性があんまりないので、走りながら考える、あるいは泥縄方式で物事が進んでいく。当然思わぬ障害が発生するし、出来があまり良くなかったりする。しかしあまり気にしない。失敗したことにしょげない。また、そそくさと急がない。おおざっぱであるという点を除き、わたしの従来のやり方とは正反対のやり方で物事が進んでいき、完成度もそれほど高くないのに、それに対して深刻になるということがない。これは多いに見習うべきことだと最近思う。このような心の持ち方をしていれば、つまり、失敗したって直せばいい、完璧にできなくてもいい、と思って暮らしていれば、このごろ問題になっている鬱は大いに減少する気がする。
Facebook自体は確かにいわば虚構の世界にしか存在しないものだが、実名で使用することによってその虚構性を免れているように思う。
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普段に着物を着ていると目立つ。スーパーなどに行くとみんなが見る。この間友人が孫を連れてやって来た。小学校の低学年らしいその子はわたしを見るなり怪訝な顔をして、「昔のおばあさんみたいー。」と言った。こうなるともうコスプレの世界だ。
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寒い時期は毎朝薪ストーブに火を付ける。この冬で三年目だ。一回目の冬、火を焚く方法を忘れてしまっていることに気が付いて愕然とした。ストーブを焚こうとしたところが、煙ばかり盛んに出てなかなか燃えない。人が原初に獲得した基本的な、かつ必須の技術を忘れてしまうとは!

が、その後だんだん思い出したり燃える様子を観察したりして、どうしたらうまく燃えるか見いだし、今年は部屋に煙を出すことなくうまく燃やせるようになった。

朝、まだ小暗い中で火がとろとろ燃えるのを見るのはとても好き。暖かく、気持ちがやわらかくなり、頭の中も澄んでくる。

この数年癒しという言葉をよく聞くが、私たちを癒してくれるのは森であったり、水であったりする。癒しを与えてくれるものは人の手が加わっていないもののように思う。ディズニーランドで癒されるという話は余り聞かない。また、体裁よく刈り込まれ、整然と並んだ街路樹にも、癒しは余り無いように思う。むしろ鬱蒼と茂った木立や、山の中を流れる小川、海辺に打ち寄せる波、そんなものに癒しを感じるのではないだろうか。

火も大きな癒しをもたらしてくれる。ずっと見ていても少しも飽きることがなく、頭の中の考えも落ち着いてくる。こういった人の手が加わらない原初の部分を生活のどこかに残しておきたいと思う。
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いつも散歩に行く道の側に竹の茂みがあって、そこにこんな家がある。
誰の家かな?

柱は細い竹で、屋根は枯れた葛の蔓。奥が結構深くて暖かそうだ。何年か前には白い犬の親子が住んでいた。鳥がここから飛び立ったこともある。

日本の家の原型は一本の木だそうだ。真ん中に太い柱、屋根となる枝葉。

この家を見ているといつもそれを思い出す。自然はいつも、自然に沿って暮らしている動物に必要なものを提供しているのだと思った。
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今日は今年の手話サークル第一回目。

このサークルは手話でおしゃべりする場というような位置づけで、手話を習っている人が、特にテーマやすることを決めることなくいろいろのことを話す。私は初心者なので手話ばかりではみんなの話していることが全く理解できないので、隣の人に話の内容を教えてもらってなんとか話について行っているという状況だが、回を重ねるごとに少しずつ理解度が増していく。

メンバーの中にひとり、耳が聞こえず話もできないという人がいて、この人の話がとても愉快そうなのでいつも一生懸命その手話を見ている。今日、エコの話題が出て、この人以外はエコの一般的な意味を理解していたが、この人がそれを理解していないことが判った。この言葉は比較的新しい言葉であるために聞こえない人たちにはまだ良く流通していないらしい。

実際のところ聞こえる人たちもどの程度理解しているのかは怪しいものだと思う。それぞれがそれぞれに使っているようなところもある。

言葉というのは考えや思いを人と共有するためのものなのに、どんどん新しい外来語が取り入れられているので、年取った人にはついて行けないものもある。祖父母は、何のことや、とよく言っていた。こういうめちゃくちゃとも言えるほどの外来語の使用を制御する政府機関があってもいいのではないか。時々の流行もあろうが、正しい日本語はそれとして残した方がいいように思う。
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今年もあとわずかとなり、正月もやってくるのでそろそろあちこちを片付けなければならない。昨日は暖かかったのでじいさんの家の台所を掃除した。

何せ古い田舎家でスペースだけはたくさんあるので、しかも昔の人なので、物を捨てるということに対して極度に慎重だ。だから、あちこちの隅に豆腐の空き箱だの菓子箱だの古い靴下だの、諸々の物が山積みになっていた。まとめて絆を断ち切る。更にあれやこれやをどけてみると、下の方に洗濯洗剤に付いてくる計量スプーンが20個ほどもかたまってもがいていた。一体何にしようと思ってとっているのか、、、まとめて捨てた。

こうしてあれもこれもとゴミ袋に放り込んでいると、ふと思い出したことがある。まだ祖母のみちえさんが生きていた頃。みちえさんは片付け上手で、ごく狭いところにあらゆる物をしまっていて、あれ、といえば必ずそれが出てくる上に、私がごく幼い頃に頭に留めていた赤いピンというような、些細な物までタンスの奧にしまっていた。着古したもんぺとか、壊れた時計とか、どこのか分からないネジとか、虫かごとか、、、ほとんどありとあらゆる物がここに入っているんじゃないかと思えるくらいのタンスだった。ひもなどはもう、日本を計れるくらい、包み紙は岐阜県を包めるくらいありそうだった、とは、大げさであるが。そうして、何かの折りにちょっとした物を出してきて、本来の目的とは全く別の目的に使ったりしていた。廃物利用じゃ、とよく言っていた。

今は何でも専用の物が出来てきて、一つの物を一つの目的にしか使わないが、ちょっと頭を使えば別のことにも使えるということはいくらでもある。みちえさんは小学校しか出ていなかったが、頭をよく使っていたと思う。日常の様々な出来事をよく観察してそこから科学的な知識を得ていたし、昔からのことわざも暮らしによく役立てていた。料理をするとき私が醤油を入れすぎないように、後悔先に立たず、などと言った。学校へ行くときは毎朝、人は右車は左、といって送り出した。こんな場面を折に触れて思い出す。
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断捨離という片付け方がはやっているらしい。

元はヨガの思想から来たもので、物を捨てて、物への執着を断つことで家の中を片付ける、という事らしく、実際にその方法を使って「片付けられない女」の惨憺たる家の中が片づいてゆく状況をニュースでやっていた。似たような映像を、この二週間ほどの間に三つも四つも見たような気がする。共通していたのが、片付けられないのは物を捨てられないからだ、という位置づけだ。果たしてそうだろうか。

この一連の映像を見ていて私は義母を思い出した。夫の実家は大変狭い家で、当然押し入れといってもほんの小さな空間しかなかったわけだが、その狭い空間に義母は見事にいろんな物を収納していて、しかも、「ねぇ、ずっと前にもらったアレどこだっけ、、、」というと、必ず押し入れのどこやらの隅から出してくれた。
一方私は、その家よりもはるかに広い家に育ちながら、片付けということは全く下手で、しかも一旦片付けると、どうもアリエッティ一家が床下へ持って行くのか、ほとんど出てこない。

結局片づけの上手下手は、物の数というよりはその人の性格で決まる。私のように片づけが下手で、しかもこぎれいに片づいていることに価値を見いだせない性格の者は、整理整頓しない。一方義母のように、きちんとしておきたい人は、こんなに沢山の物を一体どうやってこの空間に?と思うくらい、うまく片付ける。台所も狭かったけれど一通りの道具が引き出しや棚に収納され、その上床下では漬け物まで漬けていた。

テレビに出ていた「片付けられない女」の部屋は、さすがの私も腰を抜かすくらいに、足の踏み立て場のない程、物が散乱していた。断捨離であっという間にゴミ袋20袋ほどを捨てて、「きれいに片づいた」とアナウンサーはいっていたが、それは片付けたのではなく、単に物がなくなったにすぎない。

本人が性格を変えない限り、元の状態に戻るのに時間はかからないと思った。
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絶滅したとされていたクニマスが発見された。きっかけは”さかな君”だった。さかな君はさかなが大好きというその一事で、さかなに対する造形を深め、大学で教えるまでになった人だ。さかな君がクニマスを描くよう依頼され、漁師にクニマスに似ているヒメマスを送ってもらったところ、届いたのが黒い色をしたヒメマスだった。さかな君はおかしいと思い大学の教授に見せたところ、絶滅したとされるクニマスであることが分かったということだ。他ならぬさかな君に見いだされた、というところが運命的だ。

さかな君が描いたクニマスの絵がニュースで紹介された。魚に対する深い愛情が感じられる絵だった。感動した。

絵というのは自分の思いを表現するものと私は位置づけているが、まさにさかな君の思いがそのまま素直に現れている絵だった。絵に感動したのは久しぶりだ。こんなに感動したものに対して言葉はあまりない。
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