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JOGA

JOGA
ケン・ハラクマ
朝日出版社

「向こうからやってくるものの裏側には、自分が本当に求めている物があるのです。意識の奥深いところで念じていた思いが、次第に周りの環境を換え、自然に形になって現れる。―本文より」
こういうことは確かにあると思う。
願い事は必ず叶う、叶わないのは願い方が足りないからだ、こんな言葉が映画ピアノレッスンの冒頭にあったように思う。冒頭の引用はこの言葉とも通底するものがある。
また、すべてのものはその状態に留まっていることはない、従って周囲の変化に振り回されるのでなく、それに対して柔軟に対応できるようにする、ということがヨガの目的となっているとも書かれており、この点でも惹かれるものがあった。

私は単なる体操のために、見よう見まねでヨガらしいものをしているが、この体操をすると体中のリンパ液が良く循環する。もともとリンパ節の一部を除去したために流れが悪くなったリンパ液を何とかうまく循環させようと、あの手この手を試していたが、この体操が手軽で効果的だ。

何についてもその基本となっている考え方を知りたいと思う私は、最近この本を読んでみたのだが、これによるとヨガは紀元前にその原型をたどるほどに歴史のあるものらしい。元々は修行という位置づけで、じっと座って瞑想することがその修行であった。その後、呼吸や様々なポーズをとおして外界との一体化を図るなかでさらに改善が加えられ、ハタヨーガ、アシュタンガヨーガなどが分化したらしい。
細かいことはともかく、自己を見つめるというのがヨガの基本にあるとは知らなかった。瞑想は、目を閉じてじっと座って自分を見つめるということらしい。

何もしないでただ考えるという時間は、私の場合今は皆無だということに気がついた。たまに何もすることがない時間があると、その暇な時間がやや苦痛になる。どうしてこんな状況になったのだろうか。

ふり返ってみると子供のころや学生時代は使いだけ使える時間があり、それだからかどうかは分からないが、何もしないでいるということがあった。何もしないでいるときはいろいろのことを考えた。それは考えようという積極的な意志があったのではなく、ぼーっとしている中でいろいろな考えが頭を去来したという程度のことかもしれないが、とにかくそういう時間があったことは確かだ。思春期にはご多分にもれず、自分とはなんぞ也、と問い続け、ごく内向きな生活を送った。

今、たとえ子供であってもこんな風に何もしないでただ考える時間がどれほどあるだろうか。今の時代は意識してこのような時間を作り出さない限り、得ることはできない。

時に、今目の前に起こっている事象ばかりに振り回されている自分に気づくことがある。テレビの報道などがその典型で、どのチャンネルも似たような報道姿勢をとる中、一日何度もニュースを見ていると、知らず知らずのうちにその影響を受けている。

よく、町を行く人にインタビューをする映像が流れるが、その発言では報道で使用される言葉が頻繁に使われており、こういったことから、報道の影響は甚大だと実感する。

最近はツイッターという、ほんの短い文章を発信するツールが登場して、その利用者が加速度的に増加している。このツールは一瞬にして世界中に情報を拡散させるという点について大変優れたものであり、さまざまな機関、企業が利用している。そこにはほとんどの場合ハッシュタグがあって、発信元の記事の内容を深く読むことができるようになっている。しかし一般の人の発信を見ると大変短絡的なものが多い。文章が短くなれば、下書きでもして時間をとって発信しない限り、どうしてもそれは避けられない。が、一定の時間考えてから発信する人はいないのではないか。このような便利な道具が次々と出現する中、じっと考える時間はますます少なくなりつつある。

“新聞は一週間に一度来ればいい。世の中で起こったことを直ちにそのまま書くのでなく、しばらくおいてからそれに対する分析をした上でじっくり記事にするのがよい。起こったことをすぐ知るということにどれほどの意味があるのか。”という意味のことを谷崎潤一郎が書いていたのを思い出す。
by cahiersauvage | 2010-05-17 10:34 | 本の紹介